めっきり秋らしくなり、今日の日中は日差しがあったものの一頃の蒸し暑さはなく、秋らしく心地良い環境で練習をすることが出来ました。本日、運動会であった学校も多かったかと思いますが、天候に恵まれて何よりだと思っております。
本日は第11回こうのす花火大会が開催されております。拙宅は花火大会現地の糠田からは数キロ離れた生出塚と言う所にありますが、ベランダからも遠目ですが花火の光景や打ち上げ音を感じることが出来ております。
花火の歴史は古く、紀元前3世紀の中国で爆竹が使用されたのが起源だという説もありますが、最初期の花火は6世紀、中国で火薬が使われるようになるのとほぼ同時期に作られはじめたと考えられています。最初期のものは、例えばロケット花火に似たものを敵陣に打ち込んで火事を起こしたり相手を威嚇したりといった、武器との区別がはっきりしないものもあった様です。
ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、初期のものは祝砲の音を大きくしたり、煙に色などがつくようにしたものだったと考えられております。ヨーロッパでの主な生産地はイタリアで、火薬と花火製造がさかんに行われました。この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するため王が催すイベントなどで揚げられました。ロケットを除く打上花火はイタリアで開発されたという説もある様です。
日本において花火の初使用が、いつ、どこで、どんな機会に行われたのかは定かではありません。
古い記録としては、室町時代の公家万里小路時房の日記『建内記(建聖院内府記)』の1447年(文安2年)3月21日条に、浄華院における法事の後に境内にて「唐人」が花火と考えられる「風流事」を行ったという記事があります。そこでは、竹で枠を作り、火で「薄・桔梗・仙翁花・水車」などの形を表現したもの、火が縄を伝って行き来するといったものや、「鼠」と称し火を付けると「走廻」るもの、手に持って火を付けると空中を「流星」のように飛ぶもの、などが披露されたといいます。時房は「希代之火術也」と賞賛し、褒美を与えております。
現存する日本で最も古い花火業者は、東京(当時の江戸)の宗家花火鍵屋であり、1659年(万治2年)に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出しました。鍵屋初代弥兵衛は大和国篠原(奈良県吉野郡)出身であり、幼少の頃から花火作りに長けていたと言います。1659年(万治2年)、江戸に出てきた弥兵衛は葦の中に星を入れた玩具花火を売り出しました。弥兵衛はその後研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号として代々世襲するようになったとのことです。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋です。玉屋は鍵屋の手代であった清吉が1810年(文化7年)に暖簾分けをし、市兵衛と改名の上、両国広小路吉川町に店を構えたのが始まりであります。このように鍵屋、玉屋の二大花火師の時代を迎えるようになった江戸では、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになりました。当時の浮世絵を見ると玉屋の花火は多く描かれており、また「橋の上、玉や玉やの声ばかりなぜに鍵やといわぬ情(じょう)なし」(「情」と鍵屋の「錠」をかけている)という歌が残っていることからも、玉屋の人気が鍵屋をしのいでいたと考えられます。しかし1843年(天保14年)4月17日、玉屋から失火、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼くという騒動がありました。当時失火は重罪と定められており、また偶然将軍家慶の東照宮参拝出立の前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は闕所(財産没収)、市兵衛は江戸お構い(追放)となってしまい、僅か一代で家名断絶となってしまいました。
時代は進んで敗戦後、1945年9月に長野市の諏訪神社で花火が揚げられましたが、翌10月に連合国軍総司令部(GHQ)により火薬製造が禁じられました。しかし、1946年7月4日には、各地のアメリカ軍基地で日本業者がアメリカ独立祭の打ち揚げ花火を揚げ、戦後初の花火大会として1946年9月29日と30日に土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)、1947年の新憲法施行記念で皇居前広場(皇居前広場では最後の花火打ち上げとなった)などが行われました。日本の花火製造業者の粘り強い説得により、1948年にはGHQが在庫花火の消費を許可、これを受け両国花火組合主催、読売新聞社が後援、丸玉屋小勝煙火店が単独で打ち上げる、両国川開きの花火大会が1948年8月1日に復活しました。この時は打ち上げ許可量僅か600発でありましたが、平和な時代の大輪の華に70万人の観客があったとのことです(『両国川開年表』)。
現在は各地で盛大な花火大会が開催されております。花火は何故か人の心に訴えるものがあります。今宵この夜、鴻巣の花火を観た子供たちは、少年少女時代の良き思い出となるでしょうね。
さて、お待たせ致しました。本日のソフトテニスの話題は埼玉県スポーツ少年団ソフトテニス部会指導者協議会主催の指導者講習会の模様を紹介致します。講師は引き続き、ヨネックスの川端(旧姓緒方)優紀選手と中村朱里選手です。
本日のお題目は、川端(旧姓緒方)優紀選手によるボレー講習の第1弾です。前衛ポジションに興味がある方は必見です。それでは、この講習会を記録した動画をご覧になって頂きましょう。
それでは、川端(旧姓緒方)優紀選手の講習内容を時系列で整理してみましょうかぁ。1)ボレーはネットしてはいけない(ネットから離れたローボレーやスマッシュとは異なる)、2)故にネットの上でインパクトする様に心掛けること(ネットする確率は0%となる)、3)あとは狙うコースを定めて打つこと、4)グリップを軽く握ってボールが当たる瞬間に面がぐらつかない様にグリップをギュッと握る様にすること、5)グリップをギュッと握るだけで面が前にいく(ボレーはそれだけでも良い)、6)ラケットを振ってはいけない(グリップをギュッと握って肘の先を少し前にだすこと)、7)ラケットを大きく引いたりしたらいけない、8)足を前に送っていくこと(右足を着いて左足で送っていくこと)、9)右足を出してボールが来るのを待つ感じ、左足を出してインパクトしてボールを送っていく感じが良い、10)右足とラケットを出すのが同じタイミングとなってはいけない、11)右膝の溜めで次の左足を出す位置をコントロールすること、12)右足を出すのと同時にボレーをするとワンポイントのコースのみしかボールを捕らえることが出来ない、13)前衛は恐いと思う人がほとんどである、14)その恐さを克服することが必要である(恐いと思わない様にすること、それが出来ない人は後衛をやった方が良い)、15)恐いと身体が縮こまる→筋肉が伸びない→余計に怖くなってしまう、16)恐がると腕が伸びずに顔の至近距離でインパクトすることになる→一瞬目をつぶってしまうのでボールを良く観ることができない、17)伸び伸びとしてラケットを積極的に前に出していくことが大切である(目を細めないこと)、等々のアドバイスを頂戴致しました。
川端(旧姓緒方)優紀選手に於かれましては、ボレーの基本的な心構え、そして技術を懇切丁寧にご教授賜りましてありがとうございました。本講習会に参加した生徒たちにも解りやすかったかと思います。
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